青梅聖天社(おうめしょうてんしゃ)は、今は廃道となり行き止まりになっている旧巨福呂坂(こぶくろざか)にある古い社。梅の木が並ぶ斜面の上にあります。
巨福呂坂(小袋坂)は、鎌倉七口の一つとして知られていますが、現在のバスの通る道路は明治時代に切り開かれたものです。鶴岡八幡宮の西側、「車お祓い所」の向かい側に見える細い道を入るのが、旧巨福呂坂と呼ばれている古い道筋。江戸時代には、北鎌倉の円応寺の前を経て建長寺へと至る山の尾根を通り、茶屋が並ぶ賑やかな道だったそうです。
青梅聖天社は、双身歓喜天を祀るお社です。現在はここにその神像はいらっしゃらないようですが(鎌倉国宝館に収められているということですが、未確認)、インドに起源をもち、男女の神さまが見つめ合い抱き合うという艶っぽいお姿の神さまです。
江戸時代に編纂された「新編鎌倉志」に、“青梅” の名のいわれが載っていました。
新編鎌倉志 卷之三より「青梅聖天」
靑梅聖天は、雪下より小袋坂へ登る左に小坂あり。巌窟(いわや)の内に聖天の宮有。故に坂を聖天坂と云ふ。是を靑梅の聖天と云事は、俗に伝ふ、鎌倉の将軍、一日疾(やまい)劇(はなはだ)しふして、時ならず靑梅を望まる。諸所を尋ぬるに、此宮の前に俄(にわか)に靑梅実のる。是を将軍に奉て、終に疾(やまい)愈(いへ)ぬ。故に名くと。
青梅聖天は、雪ノ下から小袋坂を登った左手の小坂にある。岩窟の中に聖天の宮があるので、このあたりを聖天坂という。ここが青梅聖天と呼ばれるようになったわけは、伝え聞いたところによると、鎌倉の将軍が、急病になったときに「青梅が食べたい!」と言い出した。梅の実がなる季節ではなかったが、家来があちこち探し回っていると、この宮の前にあった梅ににわかに青い梅の実が実った。その青梅を将軍に差し上げると、病がおさまった……それ以来、青梅聖天と呼ばれるようになった。
青梅、どうやって食べたんだろう? 生のままかじったのでしょうか? 青梅は生食すると、めまいや呼吸困難を引き起こす青酸配糖体という物質(漬けたり干したりすると分解される)が含まれているそうです。健康な大人が1つ2つかじるぐらいなら深刻な事態にはならないみたいですが……でも、ものすごーぐすっぱいんだそうです! 食べたことありません、食べないで
それと、「新編鎌倉志」には “鎌倉の将軍” としか書かれてないのですが、誰だろう?
やっぱり、源頼朝公でしょうか? 実朝の方が、熱にうかされて「青梅を持て…」とか言いそうなイメージ。ちょっと風流な感じもしますし それとも、北条氏が実権を握った後、都から迎えられた将軍の方々のどなたかでしょうか? この方々もわがまま言いそうです。
青梅聖天社の前の道を使うのは、ほぼ近所に居住する方々のみ。梅の盛りの頃でも、訪れる人はわずかでひっそりしています。それでも、境内の手入れはしっかりしていて、地域の方々に大切にされているお社なのだということが感じられます。
階段を上り切ったところにある鳥居のところからの眺めは、道筋や町の形が変わった今でも、鎌倉時代、江戸時代とほとんど変わらないのではないでしょうか?
斜面に梅の木が並び、その下に水仙が咲き残っていました。周囲は閑静な住宅地だし、広い梅園ではありません! なのですが、ほとんどが白梅で、お社が高いところにあるので坂の上に浮かんでいるように見えます。気分は “秘境の梅”。
急な坂道を登って来て振り返ると、梅の香りに霞んだように谷戸と山の稜線が重なって見えました。
青梅聖天社参道の階段脇にある赤い手すり、1カ所とぎれているところがあって、そこから藪の中に小道…というか、人が通った跡が続いています。
そこを入っていくと、尾根を越えて浄光明寺などがある扇ヶ谷の方面に抜けることができるのですが、道無き道というか、途中で道筋が消えてたり、倒木があったり、笹が生い茂っていたり……行かないほうがいいですよ……というか、行かないでください、遭難するかも! 携帯の電波が届かない場所もあります!