古都・鎌倉、古い歴史を持つ街。なので伝承、伝説も数多く…。
夏の宵に、ちょっぴり冷んやり…怪奇なお話をご紹介。
鎌倉駅にほど近い大巧寺は、安産のご利益で知られ、「おんめさま」の愛称で親しまれています。
「おんめさま」にまつわる、不思議なお話があります。
戦国時代のお話です。
大巧寺の第五世住職であった日棟(にっとう)は、夜明け前に妙本寺の祖師堂に詣でて、お経を上げることを日課とする真面目で誠実なお坊さんでした。ある日の未明、妙本寺に向かう途中で滑川にかかる夷堂橋(えびすどうばし)を渡ろうとすると、見下ろす河原に女が佇んでいるのに気づきました。
よく見ると、その女は、生気のない顔色に乱れた髪、やせ細った赤子を抱え、着物は血まみれ……とてもこの世の者と思われない姿……日棟に何か訴えかけたいような様子でした。
「あなたはどこのどなたですか? なぜこのようなところにいるのですか?」
と、日棟が問いかけると、
「私は大倉に住む秋山勘解由(あきやま かげゆ)という者の妻です。数日前、難産のためにこの世を離れましたが、今、死出の旅で迷っております。この流れを渡りたいのですが、己の身から流れる血が川の水に混ざって濁り、深さの見当もつかず渡る事ができません」
女は、消え入りそうなとぎれとぎれの声で話します。
「風と水にさらされて、寒さは膚を刃に裂かれるようです。悲しみが炎のように揺らめいて胸の中を焦がし、消す事ができません。我が子はただ、乳にすがって泣くばかり……。誰が悪い訳でもありません…ただただ自分の身を恨み、苦しむことしかできません」
哀れに思った日棟は、少し考えた後、
「生死の縛を解き、病や災いの苦しみを離れるという法華経を唱えましょう。仏を信じ、疑う心を持たなければ、地獄に落ちることはありません。一念に信じてお聞きください」
と言って、お経を唱えました。女は静かに涙を流しながら、頭を垂れて聞き入っていました。
やがて東の空が明るんで、朝日が差し込むと女の姿は消えていました。
それから数日後、日棟のもとに美しい女の人が現れました。
「ありがたいお経の力で、苦しみから逃れることができました。地獄から救われた喜びを、どうか夫の勘解由に知らせていただけないでしょうか? それと、もう一つお願いがございます」
女の人は、布で包んだお金を差し出しました。
「私は難産で命を落としましたが、これからはお産をする女の人を助けたいと思います。このお金で塔を建て、お産で苦しむ人を救ってください」
日棟はお金の包みを受け取り、
「あなたの言われたとおり、宝塔を建立いたしましょう。産婦の守護となるよう、あなたを “産女霊神(うぶめれいじん)” としてまつり、生まれて来た赤子を “福子霊神(ふくこれいじん)” としておまつりしましょう」
と、伝えました。“産女霊神” となった女の人は、満面に喜びをたたえて去っていきました。
後日、日棟が大倉の里を訪れ、秋山勘解由に確かめたところ、お金を包んでいた布は、勘解由の妻が残した小袖の片袖であったことがわかりました。
日棟はさっそく宝塔を建立し、“産女霊神” をおまつりしました。それから今にいたるまで、“産女霊神” への祈りは途絶えることなく、安産の神様として信仰されています。
お産女様(おうぶめさま)が人々の口に伝わるうちに、もっと呼びやすい「おんめさま」に変わりました。
悲運の母子のお話ですが、「他の人には健やかに赤ちゃんを産んでほしい…」という思いが、時代を超えて伝わってくるようで尊さと親しみを感じます。
恐ろしげに始まるお話なんですが、最後はちょっとほっとしてしまいます。
大巧寺では、安産腹帯守(妊婦さんがお腹に巻く帯)を授けてくださいます。戌の日、大安の日には、授与所の前にずらりと列ができるほどの人気で、かなり遠くから訪れる人も多いそうです。
大巧寺の『産女霊神縁起』には、日棟が産女の霊に出会ったのは、天文元年(1532年)の出来事と記されています。貞享二年(1685年)に編纂された『新編鎌倉志』には、
…寺の前に産女幽魂の出たる池、橋柱の跡と云て今尚存す。夷堂橋の少し北なり
という記述があったりして、この産女の幽霊は当時はかなり知られた事件だったのかなと思います。
産女というと、なかなかにポピュラーな日本の妖怪で、地方によっていろんなバリエーションがあって、すごく恐ろしげな姿で描かれてたりもします…。鎌倉では、『安産の神様』として親しまれてるんですね。幽霊だったのに誰も恨んでいないばかりか、後世の女子を助けてくれるんです。
尊敬みたいな気持ちも湧いてくるすてきな神様です。