※2019年9月、10月のたび重なる台風と大雨で倒木や土砂崩落などの被害があり、通り抜けができなくなっています。(2019年10月追記)
ちょっと涼しくなってきたかなって思うけど、なかなかすっきりとした秋晴れの空に出会えません。
雨の日の合間に、「朝比奈切通(あさひな きりどおし)」を歩いてみました。
朝比奈切通は、鎌倉七口の一つで、国の指定史跡です。
朝から雨がちのお天気だったのが、昼ごろに明るくなったので鎌倉駅からバスに乗って向かいます。
現在、バスが走っている朝比奈峠(神奈川県道204号金沢鎌倉線)は、昭和三十一年に開通したものです。旧道となる朝比奈切通は、この峠道より少し下の所を通っています。
「十二所神社バス停」で下車。細い脇道に入って、住宅街を少し歩くとだんだんと周囲の緑が濃くなってきます。道の左手にある水の流れは、太刀洗川。滑川の源流です。
細い道に入って、500m弱ほど行ったあたりの岩肌に、竹筒が下がっていて清水が落ちているのが見つかります。
●太刀洗水(たちあらいみず)のいわれ
この清水が、鎌倉五水のひとつ「太刀洗水(たちあらいみず)」。
寿永二年(1183年)十二月、梶原景時が、上総介広常を誅殺した後、太刀に付いた血を洗い流したと言われる清水です。
上総介広常は、もともとは源頼朝の父・義朝に仕えた武将で、平安時代末期には関東で最大の勢力を持っていました。頼朝の挙兵に従い多くの武勲を立て貢献しましたが、父の代から仕えていたこともあって、横暴で無礼な態度が目立ったとか…。些細なことから頼朝配下の他の御家人とケンカになることもあったりして、ついには謀反の疑いをかけられてしまいます。
誅殺の命を受けた梶原景時は、なにくわぬ顔で上総介広常の屋敷に赴き、一緒に双六をしている最中にいきなり斬りつけ、首を討ち取ったとされています。
上総介広常は、義朝に仕えていた頃から太刀洗水の近くに屋敷を持っていました。
朝比奈切通は、鎌倉時代には「六浦道(むつらみち)」と呼ばれ、切通として整備される以前からここには街道が通り、六浦(横浜市金沢区)や上総(房総半島)からの物資や兵馬が行き交う重要なルートになっていました。
その重要な場所に屋敷を構え、大きな兵力を持つ上総介広常は、頼朝配下の御家人たちにとって、なんとも鼻持ちならない存在だったのでしょう。
『吾妻鏡』によると、討ち取られた後しばらくして、謀反の企てなどなかったことが明らかになったそうです。
「太刀洗水」を過ぎると、すぐに切通の入り口が見えてきます。「三郎の滝」とばれる滝の横に、「朝比奈切通」の石碑があります。
●六浦道(むつらみち)の開削
六浦道(むつらみち)を本格的に整備することが決められたのは、北条泰時が鎌倉幕府の執権だったころ。仁治元年(1240年)に測量や検地に取りかかり、仁治二年(1241年)四月五日から工事が始まったことが『吾妻鏡』に記されています。
執権・北条泰時は、開削工事の現場に出向いて指揮を執り、自らの乗馬で土石を運ばせたりもしたそうです。工事が終わった時期についての記録はありませんが、かなりの短期間(1年あまり?)で完成したようです。
●朝比奈の名で呼ばれるようになったのは、いつから?
あまりに早く工事が終わったため、「朝比奈三郎義秀が、一夜にして切り開いた!」という伝説が生まれ、“朝比奈” の名で呼ばれるようになったといわれています。
ちょっと時代が行ったり来たりしてしまいますが……
朝比奈三郎義秀は、鎌倉幕府の初代侍所別当に任ぜられた和田義盛の三男です。和田義盛は、武勇にすぐれ鎌倉武士の手本のような人物で、その三男の義秀も剛胆で並外れた怪力の持ち主として知られていました。
鎌倉幕府成立時からの功臣で、武士としての人望も厚い和田義盛は、北条氏にとってやっかいな存在でした。北条泰時の父・義時は、執拗に言いがかりをつけて和田義盛を挑発し、ついに建暦三年(1213年)五月、和田合戦が勃発します。
鎌倉の街を戦火に巻き込む戦いで、和田一族は滅びてしまいますが、三男・義秀は、勇猛果敢に大暴れした後、家来とともに予め用意していた舟で海に逃れます。
房総半島に渡ったと言われますが、東北地方に向かったとか、高麗まで行ったたというお話もあります。
江戸時代に、現代の “幕末ブーム” みたいな “鎌倉ブーム” があって、坂東武者が歌舞伎や浄瑠璃の演目、錦絵などにたくさん登場しています。
朝比奈三郎も、ヒーローとしてかなりの人気者で、「地獄の辻で閻魔様に会うが全く動じることなく、逆に極楽浄土まで案内させてしまう」という狂言もあります。剛勇無双で知られた朝比奈三郎は、たくさんの伝説の元となりました。
六浦道が朝比奈切通と呼ばれるようになったのはいつ頃なのか不明なんですが、貞享2年(1685年)に編纂された『新編鎌倉志』に、朝比奈切通(朝夷名切通と表記)が出てきます。江戸時代初めか室町時代には、その名で呼ばれていたようです
鎌倉幕府三代執権・北条泰時が尽力して切り開いた峠道に、父親が滅亡に追い込んだ一族の者の名が付けられるとは、なんとも皮肉で興味深いです。
●江戸時代に、何度も改修が行われた
六浦道が整備されると、北からの物資はすべて、六浦の港を経て鎌倉に入るようになりました。
執権家の北条氏にとっては、房総の有力豪族・千葉氏や、三浦半島を拠点とする三浦氏を牽制し、鎌倉幕府の力を保持するためにも重要な街道でした。
江戸時代になると、朝比奈切通は大山、江ノ島、鎌倉方面と、金沢八景を結ぶ観光ルートとして賑わい、道端には茶店もあったそうです。
朝比奈切通の中に点在する石像や庚申塔などの多くは、江戸時代に建てられたもので、活発に人々が行き交っていた様子が想像できます。
『新編鎌倉志』や『新編相模国風土記稿』には、江戸時代に何度も改修工事が行われたことが記録されています。
●鎌倉石の岩肌を見せる古道
昭和の中頃まで、生活道路として使われていた道筋です。
何度となく開削や修復が行われ、朝比奈切通の様子は鎌倉時代そのままというわけではありません。
切り立った岩肌を見上げると、やぐらの跡が見えるところもあり、鎌倉時代には、路面がもっと高いところにあったことがわかります。人の行き来が盛んだったころは、もっと道筋もはっきりとして草木に埋もれるようなところもなかったと思います。
それでも、ひっそりとした道を歩いていると、時代をさかのぼっていくような不思議な気持ちになる道です。県道204号がすぐ近くにせまるところもあって、鳥の声に混じって不意にクルマの走る音が聞こえてくることがあります。
鎌倉石の岩肌に、人工的に掘削したあとが残っているためでしょうか? 通る人はほとんどいなくて樹木に覆われた道なのに、山道ではなく、街道らしい佇まいが感じられます。
坂東武者の駆け引きや思惑が行き交い、江戸の人々が通った道。
ハイキングコースとなった現在でも、古都鎌倉に通じる古道の風格を保っています。
9月は、すっきりと晴れ渡る日が1日もなかったように思います。秋の長雨に、台風が加わって蒸し暑いような、荒れた天候が続きました。
彼岸花や萩など、秋の花々のタイミングがつかめずにいるうちに花の盛りを逃してしまいました。萩は、鎌倉の街中でも咲く時期がかなりまちまちになっていましたし、彼岸花は去年より1週間ほど咲くのが遅かったようです。
雨がちの日でしたが、朝比奈切通は濡れた岩肌が美しく堪能しました。足元には水が流れ、道がぬかるみというより小川のようになっていて、ちょっとキケンなところもありました。
朝比奈切通自体は1kmほどの道で、歩くだけなら30分ほどで抜けられますが、岩がちで歩きにくいところもあります。晴れた日でも、ちゃんとトレッキングぐらいの装備と心づもりでお出かけ下さいませ。