鎌倉の紫陽花シーズンはそろそろ終盤、少しずつ人出も収まってきそうです。
鎌倉駅から徒歩10分ほどのところにある、妙本寺の紫陽花は遅咲き。ちょうど見頃を迎えています。
妙本寺は、緑深い参道と大きな屋根の祖師堂が印象的なお寺ですが、境内に蛇苦止堂(じゃくしどう)という因縁めいた名で呼ばれる小さな社があります。
方丈門のところに境内の案内図があって、それを見ると蛇苦止堂という名前が見つかります。門に入らず脇の細い道を進んで行くと、階段になっていたりしてかなり登ります。
やがて、高くなったところに社が見えてきます。この社が蛇苦止堂、「蛇苦止明神」の額がかかっています。
妙本寺は、春には桜と海棠、夏にはノウゼンカズラ、秋には紅葉の美しい所として知られていますが、その季節でもこの場所を訪れる人は少なく、遅咲きの紫陽花が境内を彩るこの日も、しんとしていました。
寂しげな雰囲気の漂う場所ですが、社の中にはほのかに灯りがともり、周囲も履き清められてきちんと整えられています。
妙本寺のある谷戸は、比企ヶ谷(ひきがやつ)と呼ばれています。この場所は、鎌倉時代には源頼朝に使える御家人、比企能員(ひき よしかず)の屋敷があったところです。
比企能員は、頼朝の乳母であった比企尼の甥として生まれ、後に養子となりました。頼朝の信頼厚い比企尼の力添えもあって、比企能員は妻とともに、源頼朝の嫡男・頼家の養父母となります。
さらに、娘の若狭局(わかさのつぼね)が頼家の側室となって長男・一幡を産むと、比企一族は将軍家の親戚として権勢を増していきました。やがて、北条政子の出身家として大きな権力を振るう北条家と対立することになります。
そして、頼家が病床に伏したのをきっかけに、その相続をめぐって比企能員の変が起こります。
比企能員は北条時政(政子の父)の計にはまって暗殺されてしまいます。比企一族は小御所と呼ばれていた屋敷に立てこもり、北条家を中心とする軍勢と戦うことに!
しかし、力及ばず。比企ヶ谷の屋敷は焼け落ち、比企一族は滅亡の運命をたどりました。当時6歳だった頼家の嫡男・ 一幡も炎の中で亡くなりました。
妙本寺境内には比企一族の墓所があり、二天門の近くに、一幡のものとされる焼け残った小袖を納めた袖塚があります。
比企ヶ谷の屋敷が炎上する中、一幡の母・若狭局は家宝を抱えて井戸に身を投じたと言われています。蛇苦止堂のすぐ近くにある井戸がその井戸とされ、蛇苦止(じゃくし)の井と呼ばれています。
蛇形(じゃぎょう)の井という名でも呼ばれていて、この井戸の中では、今でも若狭局が蛇に姿を変えて家宝を守り続けているとも言われています。
木洩れ陽の奥、大きな杉の陰にある井戸は、やはり近寄りがたいようなピンとした空気に包まれているように見えました。
比企一族滅亡から、約60年後。この井戸を巡って奇怪な事件が起こります。
吾妻鏡、文応元年(1260年)十月小の条に記録が残されています。
十五日 己酉。
相州〔政村〕の息女邪気を煩ひ、今夕殊に悩乱す。比企判官の女(むすめ)讃岐局が霊が祟をなすの由、自詫(じたく)に及ぶと云々。件の局は大蛇となりて頂に大きなる角有り。火炎の如く、常に苦を受く。当時比企谷の土中に在るの由、言を発す。これを聞く人、身の毛が堅(いよだ)つと云々。
相州政村(北条政村)の娘が何かに取り憑かれたようになって、この夜は特にもだえ苦しんだ。比企判官(比企能員)の娘・讃岐局(さぬきのつぼね)の霊が(政村の娘に)祟りをなしているということを、(娘にのり移った讃岐局の霊が)言った。この局(讃岐局)は大蛇となり、頭に大きな角がある。火炎のような苦しみを常に受け、今も比企ヶ谷の土中にあると言う。これを聞いた人々は身の毛がよだつ思いであった。
北条家のお姫様が、滅ぼされた比企一族の怨霊に祟られたというのです!
※怨霊は “讃岐局” と名乗ったとありますが、“比企判官の娘” とも言っているので、若狭局のことだと当時の人も納得したのでしょう。もしかしたら、どこかで記載の間違いが生じたのかもしれません。
姫君の尋常でない状態は、1ヶ月以上も続いたようです。
吾妻鏡、同年十一月大 廿七日の記録によると、北条政村は娘のために1日で法華経を写経するなど、怨霊を鎮めるために手を尽くします。鶴岡八幡宮の別当・隆弁を招いて祈祷を行った時の様子が生々しく描かれています。
鶴岡八幡宮の別当・隆弁が、取り憑かれた娘に説法すると……
説法の最中、件の姫君脳乱し、舌を出し唇を舐め、身を動かし足を延ばす。ひとえに蛇身の出現せしむるに似たり。
その姫君は激しく苦しんで身悶えし、舌を出して唇を舐めたり、身じろぎして足を延ばしたりして、まるで蛇が現れたようだった。
かなりリアルに蛇に取り憑かれている感じがします。隆弁に説かれて霊は鎮まり、姫君は眠りから覚めたように元に戻ったそうです。
そして、その後も若狭局の霊が安らかであるようにと、蛇苦止明神が建てられたのです。
蛇苦止明神は妙本寺の鎮守さまとして大切にされています。
比企能員の変が起こったのは、建仁3年(1203年)九月二日。毎月1日は、蛇苦止明神の例祭。9月には例大祭が行われます。
讃岐局の霊を成仏させ、蛇苦止明神として祀ったのは日蓮上人だったというお話もあります。いずれにしても讃岐局(=若狭局)の物語が、恐れとともに人々の記憶に残っていた……つまり、比企能員の変は、凄惨で強烈な大事件だったということだと思います。
妙本寺は、植生に手を加えすぎないように注意しながら境内を整えているそうです。桜、海棠、シャガ、紫陽花、ノウゼンカズラなどの花々が咲き、新緑・紅葉も美しいのですが、華美に過ぎない落ち着いた場所になっています。