大町、バス通りから路地を入った住宅街の中に静かな佇まいを見せる教恩寺(きょうおんじ)。
参道を横切る桜の木や境内を覆うようなタブの古木、境内には思いがけないほど緑があります。
教恩寺は、もともとは光明寺境内にあったお寺だったそうですが、江戸時代の中頃に現在の場所に遷されました。ご本尊は、運慶(もしくは快慶)の作と伝えられる阿弥陀如来像です。
※現在、阿弥陀如来像は公開されていません。
教恩寺のご本尊である阿弥陀如来像は、最初に安置された寺院は不明とされています。
平安時代最末期、平清盛の子・重衡(しげひら)が、一の谷の戦いに敗れて捕らえられ、鎌倉に連れて来られました。その時、源頼朝が、平家一族の冥福を祈るようにと重衡に与えたのが、この阿弥陀如来像だと言われています。
平重衡は、『平家物語』の中で、“牡丹の花” に例えられるような美男子。
鎌倉で会見した頼朝は、重衡の都人らしく優雅で、武人としての器量も高く、虜囚となっても立派な態度を貫く姿に感銘を受けます。
『吾妻鏡』の中に、鎌倉で手厚い待遇を受ける重衡の様子が記されています。
『吾妻鏡』元暦元年(1184年)四月廿日の条
廿日 戊子 雨降る。終日休止せず。本三位中将(重衡)、武衛(頼朝)の御免によって沐浴の儀あり。その後、秉燭(へいしょく)の期(ご)に及びて、徒然(つれづれ)を慰めんがためと称し、藤判官代(とうのほうがんだい)邦通(くにみち)・工藤一臈(くどういちろう)祐経(すけつね)、ならびに官女一人〔千手の前と号す〕等を羽林(うりん/重衡)の方に遣わされ、あまつさえ竹葉(ちくよう)・上林(じょうりん)已下(いげ)を副へ送らる。羽林殊に喜悦し、遊興剋(ゆうきょうとき)を移す。祐経鼓を打ち、今様を歌う。女房琵琶を弾じ、羽林横笛を和す。
『全譯 吾妻鏡』第一巻(新人物往来社 刊)より引用
1184年4月20日。戊子(つちのえね)。
雨が降り、一日中、止まず。重衡は、頼朝から許可があり、穢れを洗い流すため沐浴の儀式を行った。その後、明かりを燈す時刻になって、退屈しのぎのためと称して、藤原邦通、工藤祐経と、さらに官女、千手の前を、羽林(重衡)の元へ行かせた。しかも、酒と魚を一緒に届けた。羽林(重衡)は、とても喜んで、楽しい宴会の時間が過ぎていった。祐経は鼓を打ち、流行りの歌を歌った。女房(千手)は琵琶を弾き、羽林(重衡)は横笛を合わせた。
虜囚として鎌倉に来た重衡は、お風呂に入って好男子ぶりも絶好調! お酒とご馳走とともに現れたのは、頼朝が抱える官女の中でも、最も美女の誉れ高い千手の前。楽器を演奏し、歌を歌い、教養深い話題で朝まで盛り上がったみたいです。
後に、この宴のことについて報告を受け、重衡の雅やかな様子、宴の楽しかったことを聞いた頼朝は、「周囲の目を気にして、この宴に加わらなかったことを悔やむ…。」と言っていたそうです。
頼朝の妻・政子(吾妻育ち)も、きっと「都の美男子、すごいっ…!」と思っていたに違いありませんよね?
その後、重衡は鎌倉で1年あまりを過ごします。
この間、千手の前は世話係として重衡に尽くしました。頼朝から与えられた、阿弥陀如来像を共に拝むこともあったのではないでしょうか?
人物も容姿もすばらしい重衡でしたが、父・清盛の命を受け南都焼討を行っていたことが、大きな過ちでした。大寺院のほとんどを焼かれた南都の衆徒は、平家滅亡の後も重衡を深く恨み、その身の引き渡しを迫ります。
※南都焼討(なんとやきうち) 南都(奈良)の寺社勢力は、平氏政権に反抗的な態度を取り続けていた。平清盛の命を受け、平重衡率いる平氏軍が、南都(奈良)の仏教寺院、東大寺、興福寺などを焼討ちした。東大寺の大仏(盧遮那仏)も焼け落ちた。
1185年6月、重衡の身柄は東大寺の使者に引き渡され、ほどなく斬首されます。
重衡は享年29歳でした。
重衡の死から約3年後、『吾妻鏡』に千手の前についての記述が出てきます。
『吾妻鏡』文治四年(1188年)四月廿五日の条
廿五日 辛卯 今曉千手前卒去す〔年廿四〕。その性はなはだ穏便にして人々の惜しむところなり。前故三位中将重衡参向の時、不慮に相馴れ、かの上洛の後、恋慕の思い朝夕休(や)まず。憶念(おうねん)の積るところ。もし発病の因たるかの由、人これを疑うと云々。
『全譯 吾妻鏡』第二巻(新人物往来社 刊)より引用
1188年4月25日。辛卯(かのとう)。
今朝の夜明けに千手の前が亡くなった〔年は24歳〕。とても穏やかな人で、人々が惜しんだ。故平重衡が捕われて来た時に、身のまわりの世話をするうちに親しくなり、彼が京都へ旅立った後は、恋しい気持ちが朝夕に休まる間もなかった。その深い想いは積み重なっていった。死に至る病の原因は、その想いなのではと多くの人が疑っている。
千手の前も、若くしてこの世を去りました。
『吾妻鏡』に、女性の記録があるのはとても稀です。しかも、千手の前は、源家とも北条家とも血縁のない女性です。わざわざその人柄を偲んで、記載したということは、鎌倉幕府の中心にいた人たちにとっても、かなり思い入れのある女性だったのに違いありません!
都落ちの貴公子と吾妻一の美女の、短くも穏やかな恋慕の物語。
儚いロマンスは、無骨で質実剛健が信条の鎌倉武者の胸を打ち、記憶に残ったのです。
教恩寺に伝わる阿弥陀如来像は一般公開されていませんが、2017年4月22日(土)から6月4日(日) まで、鎌倉国宝館で開催される「鎌倉の至宝―優美なる慶派のほとけ―」という展覧会で拝見することができます。
平重衡と千手の前が過ごした館が、どこにあったのかはわかりません。
でも、教恩寺を訪ねてみたら、人家の連なりの奥にあって、山門をくぐると落ち着いた空気の境内。桜の季節には、1本の桜がそっと咲いていました。その後、追いかけるように、本堂前の八重桜、藤、ツツジが咲きます。
都から連行され、もう自分の命も短いと悟った貴公子にとって、鎌倉はどのように見えたのでしょうか? そして、その貴公子から、都の話を聞いた(…であろう)千手の前は、どんな都を想像していたのでしょうか? 小さな教恩寺の境内は、とても静かで、しばしの間、さまざまに想像が行き交いました。