閑静な住宅地の中に、社寺や史跡が点在する二階堂。
この二階堂という地名の由来となった寺が、永福寺(ようふくじ)でした。
ここは長いこと、広い空き地になっていて、塀で囲われ立ち入り禁止になっていたのです。ちょっと前の鎌倉観光ガイドでは、秋のススキの名所として紹介されていました。
見かけ上は広い空き地でしたが、永福寺跡地では30年にわたって発掘調査が行われていました。長年の調査の結果、全体の規模、御堂の位置や大きさ、庭園の様子などいろいろなことがわかりました。ここ数年は、史跡公園として公開するための整備事業が進められていて、発掘調査の結果をもとに3つの御堂の基壇が復元されました。
⇒2008年3月「発掘調査現場見学会」
現在は埋め戻されていますが、お堂の裏手の水路が露出していました。発掘された漆器や瓦も展示。
3つの御堂があり、そのうち真ん中の御堂が、“二階堂” の地名のもとになった2階建ての建造物。土地の狭い鎌倉にあっては、かなりのスケールの大きさで、“二階堂” の呼び名が長く人々の記憶に残り、地名として定着したことも納得できます。
復元の工事がいったん落ち着き、期日限定ですが整備中の公園が公開されています。この後、建物の復元は行わないものの、池や庭園の一部を復元していくそうです。
※2017年7月史跡公園として公開されました(2017年10月追記)→『幻の大伽藍、AR散策が楽しい![永福寺跡]』こちらの記事もどうぞご覧ください。
永福寺は、将軍・頼朝の権力の象徴でもあり、かなりの思い入れのあるお寺でした。
文治五年(1189年)の秋、頼朝は奥州合戦に勝利し鎌倉に戻ってきます。平泉で目にした中尊寺や毛越寺などの壮大さに感銘を受け、永福寺建立を決めます。源家の宿願であった奥州を手に入れたことへの感謝の念と、藤原氏が作り上げたものに負けまいとする意地があったのかもしれません。
吾妻鏡、文治五年十二月九日に次のような記述があります。
今日永福寺の事始めなり。
奥州において泰衡管領の精舎を覽(み)しめ、當寺華搆の懇府(こんぷ)を企てらる。
かつは數万(すうまん)の怨靈(おんりょう)を宥め、かつは三有の苦果を救はんがためなり。
そもそも、かの梵閣(ぼんかく)等、宇(のき)を並ぶるの中に、二階大堂〔大長壽院と号す〕あり。
專らこれを摸せらるるによつて、別して二階堂と号するか。梢雲挿天の碧落を極め、中丹の謝より起る。揚金荊玉の紺殿を餝(かざ)り、あまつさへ後素の圖(ず)を加ふ。
その濫觴(らんしょう)をいはば、由緒なきにあらずと云々。
奥州合戦は文治五年(1189年)の9月に終結、それから鎌倉に戻りほどなく永福寺建立を宣言しました。合戦の戦死者を弔い、その怨念を鎮めるために、平泉にあった寺院に引けを取らない壮麗なものを作ろうと決意します。
約3年後、永福寺の造営が終わります。
吾妻鏡、建久三年(1192年)十一月廿日の記述です。
永福寺の營作(えいさく)すでにその功を終ふ。雲軒月殿(うんけんげつでん)、絶妙比類なし。
まことにこれ西土九品の莊巖を東關(とうかん)二階の梵宇(ぼんう)に遷(うつ)すものか。
今日、御臺所(みだいどころ)御參ありと云々。
永福寺の工事が終る。雲に届くような軒も、月の様に綺麗な建物も、その素晴らしさは比べる物がない。誠にこれは、西国浄土の阿弥陀の九品の荘厳さが、関東にある二階建てに移って来たようだ。今日、御台所政子様もお見えになった…といった内容です。
同じ年の7月に、頼朝は征夷大将軍の位についています。8月には、男子・千幡(のちの実朝)が誕生、そして、11月に「極楽浄土の荘厳さが移ってきた」ような、立派な建物が完成!
公私ともに充実し、気力溢れる将軍・頼朝と、2人の男子を産み自信満々の政子……この二人が、趣向を凝らした永福寺の庭園を眺める姿が想像できます。
この後も永福寺は、たびたび吾妻鏡に登場します。それを読むと、永福寺はかなり居心地のいい、楽しくくつろげるところだったような印象を受けます。
池の周囲には桜や梅の木が植えられ、池にかかる釣殿もありました。吾妻鏡の中に、頼家が僧や稚児たちと釣殿で遊んだという記録もありますし、蹴鞠をしたり、歌会をしたり、花見、雪見、月見…etc。様々な遊びを楽しんでたみたいです!
建暦元年(1211年)四月廿九日の記述です。
未明、將軍家永福寺に渡御す。相摸太郎殿、御共に候じたまふ。
そのほか、範高、知親、行村、重胤、康俊等なり。上下歩儀(ほぎ)たり。
これこの所において、昨朝、郭公(ほととぎす)の初聲(はつこえ)を聞くの由、申すの輩あるによってなり。
林頭に至りて、數尅(すうこく)これを待たしめたまふといえども、その聲(こえ)なきの間、空しくもつて還御(かんぎょ)す。
夜明け前に、将軍・実朝が供を連れて、歩いて永福寺へ行った。行った理由は、昨日の朝に郭公(ホトトギス)の今年初めての鳴き声を、永福寺で聞いたという者がいたからだった。
結局、その声は聞こえず、むなしい思いで帰った…といった内容です。
相摸太郎というのは、北条泰時ですね。雅を愛でる実朝が、後世にも知れ渡った人格者(?)・泰時をはじめ、そうそうたる幕府の重鎮を引き連れて、てくてく歩いて永福寺にお出かけしちゃいます。みんなで何時間も林の中に潜んでホトトギスの声を待っていたのに、結局ひとっつも鳴かなくて、なんだかなぁ…っと帰っていくのです。
帰り道も、みんなでトボトボ歩きですよ! 右大臣!!
永福寺は寺院というより、都から来た人をもてなす迎賓館としての役割があったといわれていますが、迎賓館というよりも、もっと気楽な “お気に入りの遊び場” って感じがしてきます。
この場所は、これから庭園や池の整備を行い、平成27年度に史跡公園としてオープンする予定だそうです。完成すれば、池のほとりを歩けるようになるそうです、楽しみ!
平泉にあった毛越寺は、藤原秀衡が宇治平等院鳳凰堂(10円硬貨の刻印のやつ)を模して建立した寺院でした。それを見た頼朝が建立したのですから、永福寺は平等院のような建物だったにちがいない! …なのですが、発掘調査では建物については基礎の様子しかわからないので、この史跡公園の復元も、基壇までということになったそうですよ。
池の様子はかなりわかっているそうです。
敷地内に池の復元用の石が積まれていました。このあたりは、60cmほど土をどけると、水が湧きだして自然に溜って池になるのだとか。
池に隣接して(永福寺があった時は池の中!)住宅が2軒あるのですが、縁の下かなりじめじめしそうだなーと思っちゃいました。